地域の伝説と昔話


〇 戸立岩の伝説 〇

富野小学校から西北1・5キロメートル程入った、八神部落の南にある山を、地元では「湯山」と言います。

ずーっと昔のこと、この湯山のふもとに、箪笥岩と呼ばれる岩がありました。岩の下には、ポッカリと大きな穴があいていて、その中からきれいな水が湧き出て、小野洞の水といっしょになり、その先は津保川に流れ込んでいました。

洞穴の中には、美しい乙姫さまが住んでいて、村人達が、「乙姫様、明日は嫁入りでございます。お膳とお椀を三十組、お貸し下さい。」と、お願いしておいて、翌日の朝早く箪笥岩に行ってみると、お願いしておいただけの数のお膳と、お椀がポッカリと水に浮いているのでした。

 村人は、お借りした道具は、必ずきれいに洗ってからお返しすることにしていました。ところが、不心得な村人の一人が、お借りしたお椀の一部をお返しせずネコババしてしまったのです。

 それからは、いくらお願いしても道具を借りることができなくなりました。困った村人は、この土地に住んでいた六部(全国六十六箇所の神仏をたずねて祈願する行者)に、「もとのように、道具を貸していただけるようにお願いしてくださらんか」と言って頼みました。六部は箪笥岩のところへ行き、「どうか村人のために、膳椀を貸してやってください。」とお願いしました。

すると、乙姫様は姿をあらわして、「借りたものを返さないようなことでは、貸す訳にはいきません。」と言って、近くにあった大岩の戸を立て(閉めること)て、志津野の方へ行ってしまいました。

箪笥岩は、昭和六年に部落の人が土地をならすために割ってとりのぞいたのですが、その時には死者や、大怪我をする人が出たそうです。八神部落の「深川さん」の家のそばに「乙姫塚」と呼ばれる塚が残っています。

『戸立岩』は、湯山の中腹にある高さ五メートルくらいの大きな二つ岩で、八神の部落から見ることができます。(関のむかし話 発行元 関市立旭ヶ丘小学校PTA より) 

 新撰美濃志

 協力者 八神 佐藤常一 佐藤志ず

 関市西神野(八神下)の山の中腹で標高約130mにあり、2箇所に庇の下に戸を閉じたような形の面がある大きくて不思議な岩です。

 

 

 

 

地図の写真撮影の場所からの眺め

昔は麓から良く見えたものですが、現在は植林された木に覆われて見ることができません。

 反対側の小さな戸


乙姫塚

乙姫塚は通りから細い路地を少し入った所にあり、塚の上部には石の祠があります。

この近くのお方にお聞きしてもはっきりした由来は分かりませんでしたが、塚から約30m離れた松村鎰夫さんのお宅が親から受け継いで、年3回の大祭時(二月、四月、十二月)に赤飯等をお供えしてお参りされているとの事です。


〇 坊地の一本杉 〇

関の富野に坊地という部落があります。この村の南のはずれから伊深街道へ向かう津保川沿いのみちばたに樹齢千年ぐらいと思われる杉の大木が立っています。

昔、昔、旅人の六部が行きだおれになりました。村人は六部をふびんに思い、せめてものなぐさめにと、そこに杉の苗木を植えました。これが大きく成長したのが一本杉です。

ここに住む豪族(金持ちで、勢力の強い一族)が、一本杉性を名のり住んでいました。その領地は四里四方(十六キロ四方)もあり、武儀町下之保の高沢観音まで他人の土地を通らなくても行けるほどでした。 ある年のことです。

織田信長の美濃攻めが始まりました。負けた斎藤方の武将の一人がこの土地まで逃げてきたのですが一本杉のそばで腹を切って死んでしまいました。

それから何日か経ち、今度は幼い子を抱いた乳母が行きだおれになりました。乳母は苦しそうに、「この子はあるえらいお方の子どもでございます。敵に見つかれば必ず殺されてしまうでしょう。なにとぞ、おかくまい下さいませ。お願いでございます。」とひっしに頼んで息を引き取りました。

哀れに思った村の人たちは、大杉の近くに落ち武者と乳母を葬ってやり、そこに南天の木を植え、通りすがりの六部に頼んでお経をあげてもらいました。

残された子は、一本杉家の主人が、「おうおう、なんとかわいい子じゃ、わしの子として大切に育ててやろう。」と、お屋敷の中に連れていきました。

間もなく織田方の追っ手がやってきました。「子どもを抱いた女が村にやってこなかったか?」「さあ、見ませんな。」と、村の人たちはとぼけて、誰一人口を割る者はいませんでした。 

「どうもここではないらしい。」「他へ行ってみよう」と迫っ手があきらめて帰りかけたとき、「オギャー、オギャー、オギャー。」と、赤ん坊の鳴き声が聞こえてきました。「いるぞ! どこだ! さがせ!」村人たちはギョッとしました。

声は、一本杉の根本から聞こえてきます。根本に穴が空いていて、そこから泣き声がするのです。「あそこだ!」追っ手の一人が手をつっ込みました。何やらガサガサ引きずり出しました。それは子ども用の鎧でした。「やや、おかしいぞ!」 「たしかにこの中から泣き声が聞こえたのに、からっぽの鎧しかないぞ。」

薄気味悪くなった追っ手は、「もうよい、帰るぞ。」「引き上げよう。」と、言って帰ってしまいました。

村人たちは、「一本杉のおかげで子どもの命が助かった。よかった。よかった。」と、ほっとしました。

それからのち、赤ちゃんが夜泣きをして困ったりすると、一本杉の皮をむいて、それを煎じて飲ませると不思議なことに夜泣きがピタリと止まるという言い伝えが残っています。

一本杉家は、その後、神野本郷に移り住み、奥州平泉の名門、藤原家の血筋を引く加治田城主、佐藤紀伊守の娘を嫁に迎えて、佐藤姓を名のるようになりました。

佐藤家の子孫は今でも富野から富加町にかけて栄えています。

(関のむかし話 発行元 関市立旭ヶ丘小学校PTA より)


〇 担い岩 〇

関市富野地区の西南部にある志津野の長坂から、山越しの道を北へ進んでいくと、八神部落の手前の道下に大きな岩がニつある。これを『担い岩』といってな、昔、ここで源義経のお伴をしていた弁慶と、高沢観音の鬼がばったり出会って力くらべをすることになったんじゃ。 

 

 まず弁度。

 近くに生えていたまっすぐな桧を片手で引っこぬき、邪魔になる小枝は手でサッとしごいて取った。そして、藤のつるでニつの岩をそれぞれ十文字にしばって上側に輸を作り、桧の棒を差し込んでヒョイと担いたんじゃ。その時、突然風が、サーッと吹いてきた。小さい岩にもたせかけてあった稲架の稲束がバラバラと吹きおとされたんで、バランスがくずれ、さすがの弁慶もおもわずよろけてドシンと尻餅をついてしまったんじゃ。 

 

 こんどは高沢観音の鬼。 

この鬼は桧の代わりに、仏さまにお供えするお線香を使って岩をヒョイと担いだ。この時も風が吹いて稲束がおちたけれど、鬼は平気じゃった。

 

 なぜかつて? 

そりゃ。高沢観音の鬼は、顔がニつあるからどちらから風が吹いて来るのかわかるし、手が四本あるから天秤棒と岩がゆれ動かんようにおさえることもできた。おまけに足も四本ときとるグッとふんばれるがな。

 

 え!お線香の天秤棒がおれないわけか? まあ、ええやないか、そんなこと。仏さまにも使うもんじゃから、きっと特別な力が出たんじゃろ。

 

 高沢観音というのはなあ。 

関市と武儀町(※)の境にある高沢山の日龍峰寺のことでな、いっぺん行ってみるとわかるが境内が龍の形になっていて、本堂が龍の頭にあたるんじゃ。 

国の重要文化財になっとる多宝塔もあるしな。

 

 ところで高沢観音の鬼とは宿儺(すくな 人の名前)という飛騨にすむ大豪族で、慈悲深い人じゃったが、前と後に顔があるところから「両面宿儺」と呼ばれた。手も四本あって、弓、矢、刀、斧、錫杖などをどうじに使い、四本の足で風のように走ることができたんじゃ。その宿儺が仁徳天皇へごあいさつに行った帰り、道にまよって羽生まできた時、二羽の鳩があらわれてこの高沢山まであんないした。その時ついていた桧の杖をこの土池につきさしたら、その杖が根づいて株もふえ今では千本桧となって残っとるがな。

 

 そのころ、高沢山の上の池に悪い龍が住んでいて、ふもとの農民がこまっていたので宿儺はこの龍を退治し、ここに日龍峰寺をたてることにしたんじゃ。

 

 両面宿儺にはまだまだいろいろな話があるが、時聞がないで今日はこのくらいにしとく。そのうちにまたはなしたるでな。

 

 義経が奥州の平泉へぶじ到着できるようにと弁慶がお祈りした時、たっていた足跡の残っている石が小屋名郵便局〈※〉の裏の辻にある役の行者の石垣に組み込まれている。

 

だからこの話もほんとなんじゃよ。

 

 この担い岩は、弁慶が担いでこの土地にもってきた、という話や、『死に岩』と呼ばれ、近よると命をおとすと、こわがられていたという話も残っとる。

 

(関のむかし話 発行元 関市立旭ヶ丘小学校PTA より)

  石竹 和光 ・ 佐藤 常一 ・ 佐藤志げ  小屋名史

 (*)武儀町    合併しました。

 (*)小屋名郵便局 移転しました。


〇 井戸なし村 〇

上大野の石原強兵さんに書き留めて頂きましたむかし話です。

昔々殿様が東へ東へと多くの兵隊をつれて悪者を征伐する為に通ってこられました。

川小牧村まで来られた時、村に立っていたたくさんの幟(のぼり)に馬がびっくりして突然かけ出しました。

そのまま大野村まで入りそして古井戸に馬共々落ち、殿様は命をなくしてしまいました。

それ以来大野村では井戸は神様(殿様)のたたりがあると嫌われ埋めてしまい、新しく掘ることは出来ませんでした。

事故のあった井戸はそのままで後々まで村人達が拝んでいたそうです。

又川小牧村では男の子が生まれても幟は立てなくなり、その風習は最近まで続いていました。

さらに大野村と川小牧村は隣村ですがお互いの家々との結婚はされなくなりました。

そのまま時代はすぎ、明治に入り大野村は名古屋藩庁(県)と岐阜県より各地に多くある大野村と区別する為に、上の位の大野村『上大野村』と名付けられました。

明治三十年頃に入り上大野村ではハヤテ(疫病)が多く出、亡くなる人がたくさん出ました。

当時の飲水は山側の人達は元禄十六年に完成した津保川より引き入れた大野用水の水を、他の人々は津保川より運んで利用していました。

疫病の原因の一つとして飲水が指摘され、時の警察署長より村の家々の内に井戸を掘るよう命じられ巡査や村の役の人々が先頭になり中井戸堀を進めました。

それにより疫病を防げるようになりました。

上大野には古井戸と言われて来た井戸が最近までありましたが、平成五年着工の大野土地改良の際神事を行い埋め立てられました。

 場所は万代橋より大野神社に向かって100m位の北側字名稲葉にあり、すぐ近くには通称スッテンコロ(すってんころりところぶ)と呼ばれるところも有りました。

昔々の大野村を流れる津保川は現在の西神野郵便局付近から大野村のやや山手方向を川小牧に向かい流れていました事の言い伝えがありましたが、土地改良工事中に昔の川の流れの石が沢山出て来て実証されました。

川水を飲んでいた人々が思いおこされます。

井戸を掘った証として明治三十五年に岐阜県知事の題字による碑が完成され神社地に設置されました。

平成二十九年九月  聞伝承 石原強兵

 

これからは現在の話です。

 昔ばなしに出てくる岐阜県知事の題字による碑は、大野神社の鳥居をくぐった右手の境内にあります。 刻まれている文字は次に示すように、全て漢字で現代使われていない字も多く、内容を理解することはとても困難でした。

 

 鑿井碑   (「さくせいひ」と読みます。)

 岐阜県知事正五位勲四等川路利恭篆額

富野村上大野區東南枕山岡西抱津保川居然為一區域田野

遍闢門巷相接只怨乏井水住民五十餘戸皆掬川流以

①飲料益以為鑿井則不②免神?之罰也明治三十一年疫病為虐關

 警察署長松本知三氏諭以鑿井之為急務③然困襲之久迷信

徹骨無輙應之者焉既病勢益猖④於是乎吉田清六西部重五

 郎吉田作五郎等慨然日吾郷將無?類⑤忍坐視⑥惨状乎遂

 各自於其邸内卜地鑿井巡査天野伊三郎前村長長瀬和一郎

 主督勵之夜以繼?速竣工寒泉忍迸出殊極清冽然而三子者

 無世殃矣疫亦尋?爾来傚之鑿井者倍加闔郷頼其慶豈不?

 哉項者郷人相謀欲建石勒其事以傳後世来⑦余言乃不⑧?

 劣為記顛末以⑨之云爾

 

明治三十五年一月

 

岐阜懸武儀郡長正七位小島鼎撰

 

       浪越 大島徳書

そこで、富野小学校の庄司校長先生にお願いして読み解いて頂きました。

  内容は次の通りです。

  

鑿井碑

 岐阜県知事正五位勲四等川路利恭 額を篆ず

富野地村上大野区の都南の山の岡の西の人たちは、 津保川より水を田野に引き入れて利用していました。

 その地区と接する地区の住民が五十戸余り水が乏しい掬川流域にいたが、 神様の祟りの為、 井戸を掘ることができなかった。

しかし、 明治三十一年疫病に困った警察署長の松本知三氏が長い間の迷信を廃し、 井戸を掘ることが急務であると諭した。 しかし、この迷信を信じる者も多くいた。そのため 疫病の勢いは益々増し、猛威を振るった。

そこで、 吉用清六、 西部重五郎、 吉田作五郎等が、 わが故郷がまさに滅びることを案じ、 惨状をしのんで黙って見過ごすことができず、 ついにその屋敷内に、 巡査の天野伊三郎、 前村長の長瀬和一郎を中心に夜を徹して井戸掘りを続け、 すごい速さで工事を進め、 間もなく冷たく清らかな泉が出てきた。

こうしてついに清らかで豊富な井戸を掘ることができ、 三人に祟りや疫病もなかった。 こうして出来上がった井戸のおかげでこの地を暮らす者は二倍に増えた。

 村人はこの事業を称え、 後世に伝えるためここに石碑を立てて記す。

 

明治三十五年一月

岐阜県武儀郡長  

正七位小島鼎撰

浪越  大島徳 書